3. 「フィクション」の項目についてのコメント
🐫 「フィクション」の項目に書いたこと
はじめに:なぜこういう書きぶりになったか
初学者が最初に学ぶべきは、同じ言葉が別の概念や事柄を指しうることを意識すること(多義性の問題)、および当の分野で使われる頻度の高い概念を大まかに把握すること(概念共有の問題)である。
多義語の罠にひっかかって右往左往する人は、学生にも開発者にもTwitterにもたくさんいる。
一方で、定義論(外延の確定と内包の明示)は、初学者にはまったく不要であり、かつ要点を見えづらくするという意味で害悪ですらある。
定義論や線引き問題に終始して袋小路に陥っているタイプの学生のレポートはよくあるが、思考の入り口でつまずいているとしか思えない。
なので、各種の定義論や線引き問題は、『CW:GS』ではまったくと言っていいほど取り上げていない。「定義」という語すらほぼ使っていないのではないかと思う。
書いたこと①:「フィクション」という語の多義性の整理(言葉の水準での問題)
ゲーム関連で使われる語「フィクション」には、少なくとも3つの異なる用法がある。
(a) 日常的な利害関心からの分離という意味での「フィクション」。ただし最悪の用語法。
(b) 社会的な構築物という意味での「フィクション」。ただし悪い用語法。
(c) フィクション作品の意味での「フィクション」。
書いたこと②:(a)(b)(c)のそれぞれの用法が指す概念の簡単な特徴づけと例示(概念の水準での問題)
それぞれの概念について、きわめて薄い特徴づけと例示しかしていないが、大まかに伝わればいいくらいのノリで書いている。
(a) 日常的な利害関心からの分離:
遊戯論・ゲーム研究の文脈で頻繁に指摘されてきたあれ。
※美学における〈無関心性〉と同じ系統の概念だと思われる。ホイジンガやカイヨワは、わかりやすく美的な事柄と遊びをその点で関連づけている。
【言葉の水準での問題】この概念には、いろんな呼び名がある。「現実からの分離」、「取り決め可能な帰結」、「自己目的性」、etc.
これらは、論者ごとにそれぞれ微妙に異なる概念を指すのに使われているかもしれないが、『CW:GS』はそういう細かいことを気にする本ではないので単純化してある。
(b) 社会的な構築物:
貨幣とか制度とか法律とかが社会的に構築されたものだという場合のあれ。社会存在論でよくある話。いわゆるマジックサークルもこの概念に近い。
【言葉の水準での問題】これを「フィクション」と呼ぶ用法は、明らかにベンサムに由来する。結果として、法学の人などはこの言葉づかいを使いがちだが、無駄な混乱を引き起こすだけなのでやめたほうがよい。
吉田さんの「フィクション」の項目もその混乱を引き起こしているのではないかと思う。
(c) フィクション作品:
小説とか映画とかマンガとかを「フィクション」と呼ぶ場合のそれ。
【言葉の水準での問題】分析哲学系のフィクションの哲学が問題にしているフィクションは、もっぱらこの意味である。その分野において、(a)や(b)を指すのに「フィクション」という語が使われることはない((b)が別の用語で呼ばれて(c)と関連づけられることはあるが)。
【言葉の水準での問題】少なくとも、英語圏でのゲームスタディーズやゲームの哲学では、「フィクション」という語で(c)を指すのが一番標準的である。
タヴィナーやヴァン・デ・モッセラーのような分析美学系の論者が使う「フィクション」は当然そうだが、ユールの「フィクション」も、もとはウォルトン(あるいはルイス、カヴェル、ライアンあたり)の用語法を直接に引いたものなので、基本的にその路線と考えてよい。
※ただ、ややこしいことに、ユールは「ルール/フィクション」の区分をカイヨワから引いたという言い方もしており、そうすると英語圏のフィクションの哲学とは異なる文脈での用語法ということになる。とはいえ、カイヨワもファイヒンガーなどの古典的なフィクション論を参照している形跡があるので、分析的なフィクションの哲学とそこまで距離があるわけではないと思うが。いずれにせよ、ユールの「フィクション」は、出所も含めてかなりあやふやな用語である。
余談:歴史学の人などが「事実と異なることを述べている史料」のことを「フィクション」と呼んだりするが、あれは最悪の用語法なのでやめたほうがよい。角が立つので直接言えないが。
それぞれの概念についてのテクニカルな定義論はまったくしていない点に注意。定義論(外延の確定と内包の明示)は、初学者向けにやるようなものではない。
書いたこと③:ゲームと(a)(b)(c)の関係、ゲームのフィクション(c)の独特さ(事柄の水準での問題)
これも非常に浅いレベルのことしか書いていない。
(a) ゲームと利害関心からの分離:
ゲームの行為や帰結は、一般に日常的な利害関心のネットワークから分離している。
行為のデザインの一種という観点からゲームを捉えたとき、他の行為のデザインとゲームの際立った違いは、この利害関心の分離の程度にある。
※詳しくは『ビデ美』7章を参照。
(b) ゲームと制度
ゲーム上の法則や事実は、制度的に構築されている面が少なからずある。とりわけボードゲームなどのアナログゲームはその面が強力にある。
一方、ビデオゲームはその面が相対的に少ない(まったくないまで言う論者もいるが、言いすぎである)。コンピュータによって物理的に動作するという面がかなりあるから。
※詳しくは『ビデ美』7章を参照。
(c) ゲームとフィクション
ある種のゲームにはフィクション((c)の意味)の面が強くある。歴史的にビデオゲームはこの面が強い。
フィクションとして見た場合のゲームの独特さ(ならでは)を考えると、少なくとも以下の2点が言える。
ゲームのフィクションは、インタラクティブであるという点で独特さを持ちうる。
ゲームのフィクションは、シミュレーション(手応えのあるフィクション)であるという点で独特さを持ちうる。
🐫 書く用意はあるが、書かなかったこと
書いてもいいかなと思ったが、結局書かなかったこと
人々のビデオゲーム語りにおける無自覚なリアリズム志向・表象志向の問題
ビデオゲームフィクションのリアリズムの複数の種類
表象とフィクションのどちらを理論的概念として採用するかの問題
構築性が「フィクション」と呼ばれる理由とそう呼ぶべきでない理由
利害関心のなさが「フィクション」と混同されやすい(そして混同すべきではない)理由
最初から書くつもりがなかったこと
それぞれの概念の定義論
以下は発展的な勉強用。いくつか勉強の方向を示しておく。
フィクション一般の定義
分析系フィクションの哲学のいわゆる「標準理論」では、言語行為論的な観点から、主張(assertion)と類比的な発語内行為である虚構構成的発話(fictive utterance)としてフィクションが特徴づけられる。
主張が聞き手に特定の信念(belief)を持たせる発語内行為であるのに対して、虚構構成的発話は聞き手に特定の想像(imagination, make-believe)をさせる発語内行為。
勉強用文献:
清塚『フィクションの哲学』のカリーとウォルトンの箇所
Stock, "Fictive Utterance and Imagining I"
Friend, "Fictive Utterance and Imagining II"
インタラクティブなフィクション
インタラクティブなフィクション(以下IF)としてのビデオゲームについてはTavinorがとにかくいろいろ論じているが、分析美学の基礎知識がないと読めないと思われる。吉田さんが多少言及しているvirtual fictionalism(Chalmersのvirtual realismへの対抗)もフィクションの哲学の基本を知らないとポイントがわからないだろう。
Van de Mosselaerは、Tavinorのフォロワーの中でいま一番頑張っている人。リンク先の博論だけでなく、ゲームのメタフィクションや欺瞞的なゲームなどの面白い論点について多数の論文を書いている。
Robson & MeskinはIFの特徴として「self-involvement」を強調するが、それはIFのひとつのあり方でしかない。
『ビデ美』6章に薄めの議論がある。
self-involvementについてのより突っ込んだ議論も出ている。
SIIFの経験は、de se想像と絡めると面白そうな論点だと思っているが、ぜんぜん勉強できていない。そのうち何か書ければと思う。
IFの経験の独特さはengagementの一種ではあるので、岡田さんの研究にいろいろ使える素材がありそう。
虚構的行為の存在論、虚構的行為文の分析
プレイヤーが虚構世界上での行為をしているかのように記述する文は、実際には何を述べているのかという論点。
問題の定式化については『ビデ美』11章を参照。
Van de Mosselaerの初期の論文もこの論点を扱っているが、上記のIF関連で、近年の議論もいろいろあるはず。倉根さんが詳しいかも。
シミュレーションの定義、シミュレーションとゲームの関係
定義論については、『ビデ美』8章・12章、松永「様式化されたシミュレーション」を参照。
シミュレーションを表象の一種として考えれば、フィクションの哲学を超えて科学哲学とも密接に関連する論点。表象としてのシミュレーションを特徴づけるキー概念は「モデル化」である。『ビデ美』の説明を改善する用意はありつつも、きちんとやっていない。以下のブログ記事でそのへんを少し書いた。
https://9bit.99ing.net/Entry/113/
https://9bit.99ing.net/Entry/114/
『CW:GS』にもわずかに書いたが、FrascaやBogostのゲーム観は、言葉づかいはともかく、表現形式としてのゲームの独特さをシミュレーションの点から説明するというものだと思われる。この考え方には、一定数の賛同者がいるだろう。ゲームの「メタファー」としての働きを強調するMöringも同じ路線かもしれない。
ゲームをシミュレーションとして捉える考え方は、WaltonやGombrichの考え方(いわゆる代用説)とも相性がいいはずだが、その点を積極的に論じているものはあまり見ない。KlevjerやMöringが論じている程度? そのうち分析美学系で出てきそうだが。
逆にゲームはシミュレーションには還元できないという考え(アンチシミュレーション主義)については、松永「動詞とパターン」で書いた。
表象(representation)とフィクション(fiction)の概念的な関係と言葉の整理
とにかく用語法が錯綜しがち。
Juulの『ハーフリアル』はおおむね同じ意味で使うが、なぜそういう用語法になっているかは謎。
『ビデ美』は両者を概念として明確に区別した上で、フィクションではなくルールのレベルにも表象(記号‐内容の関係)がある(結果として三項モデルになる)と主張する点で、『ハーフリアル』との違いをアピールしている。『ビデ美』が二項ではなく三項モデルである件については、以下の資料がわかりやすいと思われる:
https://researchmap.jp/zmz/presentations/13016715
ちなみにWaltonも「representation」という語を使うが、それは別の由来を持つ概念(いわゆるミメーシスのこと)であり、混ぜると地獄のようなことになる。詳しくは以下:
https://researchmap.jp/zmz/presentations/45585825
フィクションのリアリズム
『CW:GS』の本文に、「リアリズムの程度はフィクションか否かには関係ないよ」ということをわずかに書いている。
当たり前の話なのでそれ以上何も説明していないが、初学者向けにはもう少し説明が必要だったかもしれない。とはいえ、本格的に「リアリズムとは」という話をしだすとかなり難しい議論にならざるを得ないので、バランスが難しい。
絵のリアリズムの基準についてはそれなりに研究の蓄積があるが、フィクション一般のリアリズムについてどういう議論があるかは調べられていない。いわゆるミメーシスの話とも関わるだろう。
ビデオゲームのリアリズムについての自分のひとまずの考えは以前授業資料でまとめたことがあるが、取っ散らかったままである。
https://slides.com/zmz/piko09-realisms
https://slides.com/zmz/piko09-realisms#/42
ついでに、リアリズム/リアリスティックのことを「リアリティ/リアル」と呼ぶのは用語法としてミスリーディングかつガラパゴスの極みなので、そういう言葉づかいをしている方は意識してやめることをおすすめする。"real"を"realistic"の意味として理解していると、英語文献もまともに読めなくなるおそれがある。